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2011年1月28日金曜日

DevLOVE行ってきました。

”DevLOVE Test Day「我々は、テストで世界を繋げる。」”に行ってきました。
⇒詳細はこちら

ここ数年、勉強会やカンファレンスにはほとんど足を運べていませんでしたが、やりかけの仕事をほっぽらかして参加しました。
※ちゃんと帰ってきてからやりましたよ!
会の詳細はTogetterにまとまっていますので、特に書かず私的なことをまとめます。


■なぜ、私は参加したか
前々回のブログにも書きましたが、最近Twitterにどっぷりはまっています。この勉強会の存在もフォローしている方のtweetで知りました。
XP、アジャイル、TDD、BDDといった言葉はものによっては7~8年前から耳にはしていたものの、実践はおろか参考文献もWikipediaやIT系雑誌の記事位しか読んだことがありませんでした。
ほとんどの仕事が50~100人月超のものになり、一人開発していた手法をスキルの違うメンバーに強いたまま、品質を向上、安定化させるのは困難になってきました。
そんな中この開催を知り、
・他社ではどのようなテストをし、どのように品質に向き合っているのか
・この界隈の重鎮(失礼な言い方ですみません)は、どんな思想を持ち、どんな言葉を発するのか
・そもそもXPやアジャイル、TDDってどう利用(運用)されているのか
などについて、聴くことができれば幸いと参加しました。


■参加する前に取り組んできたこと
Web系システム開発にあたって参加する前に取り組んできたことは、
・Weeklyで開発者会議に顧客の現場担当者にも参加してもらう
(目的)仕様齟齬の早期発見、手の内を見せて製品に対する安心感を得る、人間が作っていることを顧客に知ってもらう、顧客の一挙手一投足(感情、思想、性格まで)を現場に肌で感じてもらい作る喜びにつなげる
・プロジェクトオーナーを中心にPM、PLクラスでWeeklyの定例会を開催する
(目的)決議事項のみ話し合い、決定と承認を得る
・Redmineの導入
(目的)タスクの管理を顧客と共有する
・TestLinkの導入
(目的)どんなテストを計画・実行しているかを顧客と共有する
・Selenium/SeleniumIDEの導入
(目的)主に画面系のテストの自動化。また自動化による運用フェーズにおける改修時のコスト増加抑止
などです。
顧客とのコミュニケーションをはかることが目的の取り組みが非常に多いのは、手戻しをなくすことや、顧客の目に触れる文書を書くことが例えチケットであろうと手抜けないことから良い緊張感が生まれることを期待してです。
しかし、残念ながらこれらをまったく実践できていないプロジェクトもあれば、こなした上でも仕様齟齬、納期遅延、想定以上のバグの発生はあります。


■参加をして感じたこと
今日の勉強会では当然のことながらテストそのものにフォーカスされていたため、どう要求を要件に落とし込むか、どう要件を最適な設計に落とし込むかなどについてはあまり触れられていませんでしたが、
Great software requires collaboration and communication.は真髄と感じました。

また、さすがに登壇された方は(おそらく)酸いも甘いも噛み分けてこられた様で、非常に説得力がありました。
折角チームのみんなが仕事をしている最中に参加したのだから、良いスキームは取り入れ、意識改革、組織改革の起こし易い環境を作らなくては、と強く感じました。

その他、講演を通して感じたことは
・良著をもっと読まなくては
※本、全然読んでないです。尾田先生や板垣先生がテストの漫画描いてくれないかなぁ。。
・開発者にはツールを使わせるところからスタート
※これ深いです。こんな短いまとめですが、この言葉の背景は様々な私の悶々をすっきりさせてくれました。
・合理主義者には数字で挑もう
※テスト自動化コストvs複数回手動テストコストの損益分岐、自動化による分析容易性など
・自動化しにくいのがフレームワークのせいなら古いんじゃないの?
※そうですよね。そうですよね。(/_;)
などです。他にも印象深いものや目から鱗なものはいっぱいありましたが、特に強く感じているのは以上です。


■さぁ明日から!
私の性格上、経験していないことは教えられません。まずは自ら実践するとともに、価値創造のための良い環境づくりの種を多く蒔けたら、と思います。
講演資料はおかげさまでDLさせていただきましたので、まずは社内勉強会を2週間以内(長い!?)に開催します!!


■おまけ
ビアバッシュにならなかった(講演中に飲み食いしたため)、テーブルディスカッションもとっても有意義でした。幸いなことに@t_wadaさんと、@ryuzeeさんと同じテーブルでした。
一方的に質問ばかりしてしまい、なんか厚かましい奴と思われたかも知れません(/_;)

2011年1月23日日曜日

僕の航海記(98年7月 短絡的決意)

前回の記事:僕の航海記(序文)

1998年7月。

つとめていた会社を辞め、会社が用意してくれていた大宮のマンションを引き払って、近くのアパートに引っ越しました。辞めた会社ではパチンコ店の釘師兼店長をしていましたが、28歳無学(高校1年中退)の自分でしたがかなりの高給取りでした。パチコン業界はメーカーが限られていることもあり非常に狭い業界であり、当時の僕のように若くて実績のある釘のたたける店長経験者は、その気になればすぐ紹介で別の会社に勤められるので、あまり蓄えはありませんでしたが数ヶ月のんびりしようとプラプラしていました。

失業保険も前職の7割程度でると思っていた(実際には上限があったので予定の5分の1ももらえませんでした)ので、97年に覚えたばかりのインターネットとパソコンを満喫しようと、当時コンシューマー向けには最先端の56Kbpsの外付けモデムとデルのタワー型パソコンを買いました。
パソコン素人のくせに、これも豪勢にCPUはPentiumII 400Mhz、メモリは192Mb、IEEE1394ボードをつけて、SCSIボードはAdaptec AHA2940、グラフィックカードも乗せ換えてDiamond Fire GL1000、サウンドボードもオンボードを無効化してサウンドブラスターを乗せ、MOドライブ、ZIPドライブ、DVDRAMドライブ、さらにMIDI音源もYAMAHA XG-MU1000を外付けした、手に余るものでした。

こんな豪勢なPCを持ちながら、していたことはネットサーフィンだけだったのですが、IRCやICQ仲間の間でホームページを作ることがはやり、GeoCitiesやTripodに作ってる友達をまねて、プロバイダ(日本高速通信)が無料で2Mbまで利用させてくれていた領域に、Microsoft FrontPageでがんばって作ったものをFTPソフトでアップしてました。コンテンツと呼べるようなものはなく、自己紹介が中心のサイトでした。※当時はホームページをHPって言うなとか、ホームページはトップページのことをさすだとか、こだわっている人が多かったなぁ。

なにしろすることがなかったので、いろんなホームページを見ているとプロバイダーが貸してくれる画一的な掲示板じゃないものや、画像がかわいいアクセスカウンター、そしてこの頃から徐々にはやりだしたFLASHやSHOCK WAVEコンテンツをみて、自分も作りたいと思い始めました。
思い立ったが吉日で、すぐに書店で掲示板やカウンターのサンプルのついたムックと、FLASH 3を買ってきました。※この頃はSWFはSmall Web Formatと言っていたが、いつの間にかShock Wave Flashの略とされてたなぁ。※※98年の後半は、個人のCGI制作者(KentWebさんやWeb新撰組さんなど)やアイコン制作者(牛飼いのアイコンさん、ゆぴさぽさんなど)が書籍にも登場するようになりました。

日本高速通信のホームページ領域はCGIが設置できなかったので、名前は失念しましたが埼玉県上尾のローカルプロバイダーさんと契約し、CGIが設置できるホームページ領域を手に入れました。始めはパーミションを755にするとか、telnetとかわからないことだらけでしたが、兎に角くさるほど本を買って一つ一つ噛み砕き、載っているサンプルは一つ残らず写経して書籍通り動くことを確認する、こんなことを1週間位1日2時間くらいしか寝ずにやっていると、簡単な掲示板やアクセスカウンターは自分で作れるようになりました。※CGIは仕組みの名称なので本来をCGI設置っておかしいんだが、このころはperlで書かれたCGIプログラムのことをCGIだと思ってた。(T T)
自分好みの掲示板やアクセスカウンター、リンク集が作れるようになると今度はマルチメディア系に目が向き始め、ミディシーケンサのSinger Song WriterとYAMAHA XG WORKS、PhotoShop4.0、Adobe Premiere、Macromedia Firewoksとそれにまつわる本を買い漁り、2週間くらいむさぼりつくしました。
おかげで8月上旬には、自作のイラスト、自作(打ち込みのみ)のMIDI、自作のFLASHムービ−、自分で編集した動画、掲示板、アンケート、Web Vote、リンク集、日記、カウンターとずいぶん華やかになりました。※今見ると顔から火がでるほど恥ずかしい作品だが。。

毎日20時間以上40日近くこんなことをしているとさすがにいろいろなことが身に付くもので、このころになると自作PCや、よりこったCGIプログラムに興味を持つようになりました。また、派手になったホームページをIRC仲間がすごいってほめてくれた(社交辞令って思えなかったんです。(/ ;))こともあって、とにかくのめり込みまくっていました。
そんなとき、当時のマイクロソフト日本法人サイトに掲載されていた、今後のインターネットに関するコラムを読みました。97年に書かれたこのコラムには、この仮想空間(当時はよくこんな言い方をされてました)は、いっそう技術的にも、サービス的にも進化を遂げ、97年現在で約700万人のインターネット人口は2000年には1500万人なると書かれていました。※実際には98年中に1500万人は突破し、2000年には5000万人弱まで一気に普及している。

このコラムが短絡的な起業の引き金を引きました。
勝算も根拠も何もありません。ただ、"ホームページは仮想空間の玄関だ"→"自分がこうしてホームページを持つように、きっと将来は1家に1HPな時代が来る"→"どんな家でも表札を段ボールにマジックで書いたようなものにせずプロに作ってもらっている"→"HPのプロがきっとこの先大勢でてくるに違いない"→"CGIだってまだ若い技術だ"→"今始めれば先行している人たちに大きな遅れをとってない。むしろ先頭集団だ!"と、こんなことを考えていました。

これだけでホームページ制作会社を立ち上げようと決意しました。
今考えても無謀な、若気の至りな決意でした。たった1ヶ月の浅い経験で無謀にも起業を決意した僕ですが、予想通りつらい苦しい1年半が控えています。

今回はここまで。

2011年1月21日金曜日

僕の航海記(序文)

最近Twitterにどっぷりはまっています。
1998年ごろから本格的?(毎日数時間以上)にインターネットを利用するようになりましたが、インターネットを通じたコミュニケーションは、今までIRC、ホームページの掲示板、メーリングリスト、ネットゲーム、SNSと様々なツールやサービスで取ってきました。
僕にとってのTwitterは、自分からの関わり方という点では、メーリングリストに似ていますが、半受動、半能動的に得られる情報の広さ、深さと言う点では、何百、何千という個人の掲示板を毎日渡り歩くに等しいと感じています。
それこそ98年頃は、YahooやInfoNavigator、ライコス、ホールインワン、フレッシュアイ、JOYなどを駆使し、自分の興味のあるキーワードで引っかかるホームページをネットサーフィン(古w)し、掲示板に足跡を残しブックマークして、翌日以降ブックマークから1サイトずつ訪問して、返事があったらまた返事を書いて、と言った遊び方をしていました。
ブログなんて言葉も多分ありませんでした。SNSもありませんでした。2CHは怖かったので、TeaCUPばかり徘徊していたのもこの頃です。

ここ数年は多忙だったこともあり、ニュースリーダー(ネットニューズではありませんw)に登録されてる配信元も激減し、未読数はいつも4桁オーバーな状態でしたが、TwitterとiPhoneのおかげで劇的に様々な情報に触れる機会、なにより様々な人の生の声に触れる機会が増えました。
よい意味でも、悪い意味でも感化、触発される機会が増えました。
その中で、情報を上手に整理し、自分の意見や思想、経験をきちっと記録、公開されている方々を多く目の当たりにし触発され、自分でも何か発信できないかとこのブログを書いています。

僕は98年に準備を始め、99年に起業、現在まで小さい会社ですがなんとか潰れずにがんばっています。
98年には完全に無知だった僕ですが、部下、取引先、家族などいろいろな人たちに支えられながら、今日までして来た経験は、これからの自分の10年のためにも感覚ではなく言葉で記録して行きたいと思いました。
経験の善し悪しを問わず、このブログが自分だけでなく誰かに何らかの影響を与えたらうれしいな、と思います。

すでにお気づきの通り文才はありませんし、日によって語調も変わると思いますし、続けられるかもわかりませんが、ITリテラシー0の自分がどのように、数百のシステムを構築し、数百のサーバーを管理して来たか、機密保持に反さない内容に絞って、書き綴っていければと思います。

記事のタイトルは、最近では人前で自分を僕と称することはありませんが、たった一人で起業しようと思った当時の自分はまぎれもなく「僕」でした。その僕が1人乗りの丸太ん棒から筏、ボート、ヨットと仲間を増やしながら乗り継いで、晴れの日も嵐の日も邁進しているのは航海であり、今なお、し続けている失敗には後悔の連続であり、それをブログで公開するところからつけてみました。